| 東北教区 | ほんちょうじ |
本長寺 参道 |
| 豊国山 | 本長寺 | |
| 院号通称 | 鬼子母神さまの寺 | |
| 住職名 | 15世 飯田 修司 | |
| 所在地 | 〒999-0604 山形県西置賜郡飯豊町大字椿2618-1 | |
| 電話 | 0238-72-2314 | |
| FAX | ||
| E−mail | ||
| 開山 | 法性坊日扇 | |
| 開基 | 妙義院日普 |
| 寺宝什物 | 椿焼陶器 |
| 交通 | JR米坂線羽前椿駅下車、徒歩8分。 |
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本堂 |
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豊国山本長寺の沿革 当寺は、永禄年間 1558年頃、越後坂町本伝寺の末寺として建立され、大法院と称したが、その後天災などで廃寺同様となって久しかった。天明のはじめ頃、越後漆山(現在巻市)に田辺休弥・田辺玄徳という兄弟の方があり、兄休弥という方は熱心な仏教信者で、越後から集団移民を行って置賜の開拓をすすめ、同時に布教を大きい眼目にしようということで、大法院再興のことを米沢藩に願い出ます。弟玄徳という方は、江戸で医師を業とし、兄休弥の良き協力者となった。 |
本堂 祭壇
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この田辺兄弟の大業成らんとする天明7年の春、この兄弟が相次いで病死されたのは不幸な事であった。しかし、休弥嫡子藤右工門という方が父の遺志をついでこの事業に取り組む。藤右工門手不足のところに長岡藩池の内(現在見附市名木野)出身の小川多仲という方が良き協力者としてはたらいたことも特記すべき事項である。以上の様な方々の努力によって、天明7年から八年にかけて米沢藩並びに本山へ願いの書状が出される。 この様にして、中興日普上人代、寛政 3年(1791年)本伝寺末寺として寺地一町三反歩を拝領、豊国山本長寺と改称して許可されることとなった。現在の建物は、天保9年8月の火災に昔の建物を失い、その後建てられたものである。 爾来明治維新まで米沢藩上杉家の祈願所であった。
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守護神堂 |
守護神堂 祭壇 |
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守護神堂 |
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位牌堂 |
位牌堂 内部(正面 開山堂 側面 厨子) |
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本長寺は天明年間に、置賜地方開発のため、越後から集団入植が行われた時、いっしょに建てられた寺院なのです。 いま碑の裏側(もとは表側だった)に廻りこんでみると、板碑特有の頭頂部も美しく、正面にお釈迦様をあらわすバクという梵字が一字、はっきり刻まれています。いつの世にどんな願いがこめられた「みほとけ」なのでしょうか。−文化 12年8月建立とある。−
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−表− −裏− |
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法界万霊塔(無縁の塔) |
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歴代住職の墓 |
歴代住職墓誌 |
| 歴代 | 住職名 | 遷化 |
| 1 | 法性坊日扇 | 天正3.4.1(1575) |
| 2 | 妙義院日普 | 寛政8.3.4(1796) |
| 3 | 成就院日・ | 寛政12.9.18(1800) |
| 4 | 不還院日圓 | 天保10.6.14(1839) |
| 5 | 禮遠院日英 | 享和3.1.27(1803) |
| 6 | 勤唱院日頌 | 文化13.2.5(1816) |
| 7 | 常寂院日住 | 文政元.10.25(1818) |
| 8 | 富行院日実 | 嘉永6.6.17(1853) |
| 9 | 観直院日宴 | 天保13.3.12(1842) |
| 10 | 宏宗院日審 | 明治4.8.9(1871) |
| 11 | 微妙院日浄 | 昭和20.1.20(1945) |
| 12 | 真浄院日充 | 昭和2.10.5(1927) |
| 13 | 本学院日幹 | 昭和63.3.1(1988) 94才 |
| 14 | 天明院日梵 | 昭和48.10.23(1973) |
| 15 | 一実院日向 | 現住 |