北海教区 ちょうおうじ

 

長応寺 本堂

 

芳荷山 長応寺
院号通称 長久院・おとくさんの寺
住職名 35世 藤岡 妙英
所在地 098-3225 北海道天塩郡幌延町字上幌延174番地
電話 01632-5-2019
FAX  
E−mail  
開山 大悲院日暹
開基     日察
寺宝什物   高祖大聖人御真筆御本尊、日朗・日陣聖人御真筆御本尊。法華経絵曼荼羅8軸(天文14年、鵜殿家寄進)。「蓮葉院殿日浄尊儀」(西郡の方)御位牌。
交通 JR・宗谷本線上幌延駅より徒歩10分。幌延駅より車で6分。

 

 三州西郡上郷城主2代鵜殿藤太郎長将の寄進により文明5年(1473)創建され鵜殿家累代の菩提寺となった。後、永禄5年(1562)今川方であった上卿城は落城し、その時寺も類焼、時の住持6世日翁はこれを江戸の日比谷へ移し引寺して文禄元年(1592)再建されたが、その後三度移転して芝・高名輸に落着したのは寛永12年(1635)であった。
 今川家没落の後、家康に仕えた鵜殿家では藤助長忠の養女おとくが家康の側室となり、関東国替の時、江戸へ下向して甥の日翁と再会、深く帰依して外護の念厚く七堂伽藍を寄進したので俄に堂坊
12院を有する大寺院となり、やがて日蓮門下勝劣派の触頭となった。

 

長応寺 御本尊
(一塔両尊像と四菩薩座像)

 降って弘化2年1月近火によって類焼。後24世日守の苦辛で庫裡が再建されたが維新以来武家勢の失墜とともに多くの檀信徒を失い極度に衰微してしまった。 明治30年北海道国有未開地処分法力制定され、大規模な開拓地の無償付与制度が確立、これを契機に北海道の拓殖事業は盛んとなり、移民の数も急激に増加しつつあったが、それにともない仏教各派の北海道に於ける布教活動も著しいものがあり、明治31年練行院日聡また長応寺29世を継ぐやこれを北海道に移し開拓地に於ける法華宗布教の中心たらしめようと決意。芝、長応寺敷地売却企及び寄附金をもって翌32年より天塩郡ウブシ原野に法華宗農場を開設、国有未開地243万3.498坪の貸付を受け、新潟、富山、宮城の三県より95戸、更に17戸を補充して農民を移住し入植開拓にあたったが、寒冷地塁闘の辛苦は名状し難いものであった。開墾営農事業は苦難重畳してひどく難渋したが挫折することなく進め一応同41年墾了した。

 

 明治37年長応寺の移転出願は許可され天塩村に地所を得て仮建築し、ひとまず長応寺を移し(現・天塩・妙法寺)、同41年農場内に2万1千坪の土地を割いて堂宇・庫裡等170余坪の新築に着手1大正2年漸く竣工をみたがその発願して企図以来実に15年の歳月を費やして漸く芝・長応寺の移転が実現したわけである。斯様にして長応寺は建立され北海道に於ける法華宗布教の根拠が確立したばかりか、そのためめ手段として開設された法華宗農場の墾開によって、開拓開教の目的は一応遂げられたと言ってよい。
 その後、日聡は隠退したが不幸にも大正8年火災のため全焼という思いがけない結果から日聡再び長応寺住職及び法華宗農場主任に復帰した。しかし、農場の負債整理や堂舎再建費用捻出に腐心してやむなく農場を処分してしまった(大正12年)、農場開設以来25年目のことである。苦楽をともにして来た日聡を始め小作人一同にとっても感慨ひとしおに深いものがあった。
 後、檀信徒の外護により大正11年再建され現在に至っている。

 

鐘楼堂

   
歴代 住職名 遷化
 初 大悲院日暹  
 2          日察  
 3     日譽  
 4 常顕院日壽  
 5     日恩  
 6 常郡院日翁  
 7     日進  
 8     日耀  
 9     日通  
10     日増  
11     日秀  
12     日乗  
13     日領  
14     日永  
15     日叔  
16     日是  
17     日運  
18     日護  
19     日精  
20     日梵  
21     日堂  
22     日暢  
23     日明  
24     日守  
25     日立 文久3.6.12(1863)
26     日琳  
27     日光  
28     日慧 明治31.3.(1898)
29 練行院日聡 昭和6.5.1(1931)
前30     日満 (大正5〜大正8)
後30 練行院日聡 昭和6.5.1(1931)
31 善本院日泰 昭和27.3.8(1952)
32 (醇妙院日康)  
33 随順院日芳 昭和52.1.31(1977)
34 観樹院日行  
35 藤岡妙英 現住