巻頭言
春の行事を迎えるにあたって

東北教区宗務所長・鶴岡市 本鏡寺住職 藤本典行

 地響きを 土手につたふる 雪解川  遠藤止観『句集−沙門抄』から

 暑さ寒さも彼岸までと昔からいわれていますが、雪国にとっては、とくに春は待ち遠しい季節であります。右の句は、別院本興寺(べついんほんこうじ)のご山主であられる金原日達聖人の詠(よ)まれた句であります。山形のとくに雪深い里にお生まれになって、厳しい冬を体験なされて、春の命の息吹を強く感じる雪解けの光景を歌われたものでありましょう。春の雪解けとともに、見え始めた地面に、福寿草やクロッカスが芽を吹き、人々はその命のけなげさに強く感動します。日蓮大聖人のおことばに次の文句があります。

 法華経(ほけきょう)を信(しん)ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかへれる事を、いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫(ぼんぶ)となるを『妙一尼御前御返事(みょういちあまごぜんごへんじ)』(昭定一〇〇〇頁)

 



 このご文章は、法華経を信仰する者は、厳しい冬を耐え忍んでいるようであるが、必ずその先には、光明があることを述べたものであり、春と冬という季節に法華経の信仰者の心情をたとえられたものです。
  春と冬は隣同士の季節ではありますが、あまりにも違った自然の光景が想像されます。それはあたかも、「彼岸(ひがん)」と「此岸(しがん)」のように感じられます。
  三月は彼岸会の月であります。降(ふ)り積(つ)もった雪をかきわけて、先祖のお墓をお参りする方、地方によっては、「ぼたもち・団子」を持参し、お墓にお供えしていかれる方をお見うけします。どなたさまも春陽の光を受けて、みなさん生き生きとした笑顔でお参りなされます。
  さて、日蓮大聖人はあたかも、反対の岸と思われる「彼岸と此岸」のことを次のように述べられています。

 今爾前迹門(いまにぜんしゃくもん)にして十方(じっぽう)を浄土(じょうど)とごうして、此土(しど)を穢土(えど)ととかれしを打(う)ちかえして、此土(しど)は本土(ほんど)となり、十方(じっぼう)の浄土(じょうど)は垂迹(すいじゃく)の穢土(えど)となる。『開目抄』(昭定五七六頁)

 彼岸と此岸を大地にみたて、彼土(ひど)と此土(しど)といいます。彼土は仏の宝土(ほうど)、此土は我々が住んでいる娑婆(しゃば)といわれていますが、日蓮大聖人は此土を仏国土と明言されています。このご文章のお考えは『法華経(ほけきょう)』の寿量品(じゅりょうほん)の中の「我常在此娑婆世界(がじょうざいししゃばせかい)」「我此土安穏天人常充満(がしどあんのんてんにんじょうじゅうまん)」という文句に依拠(いきょ)しています。ただし、そう感じられるには、己(おのれ)の心の煩悩(ぼんのう)にうち勝ち、六度(ろくど)という行いをしなさいと諭(さと)しております。
六度とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)のことであります。正しい智慧を磨き、社会的な規範や道徳、さらに五戒(不殺生(ふせっしょう)・不邪淫(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不偸盗(ふちゅうとう)・不飲酒(ふおんじゅ))を守り、他人に施(ほどこ)し、辛抱努力し、常に動揺しない平常心を保つように生きていきなさいというものです。
彼岸が終わると、四月あるいは五月に「花まつり」があります。辰(とき)は青葉の時節となり、心地好い薫風(くんぷう)が吹き始めます。「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と明言されて、ご誕生になられたお釈迦さまをお祭りする法要であります。お生まれになって七歩お歩きになり、そう語られたといわれています。七歩とは、六道(どう)(地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天界)輪廻(りんね)を超えるという意味をもっています。すなわち、我々凡夫(ぼんぶ)はこの六つの世界を行ったり来たりしているという迷いの世界であります。ご誕生の時の甘露(かんろ)の雨にちなんで、甘茶をお釈迦さまのお身体(からだ)にそそぎます。

 是(こ)の三界(さんがい)の日本国は釈尊(しゃくそん)の御領也(ごりょうなり)。其(その)御領の住人は釈尊を主(あるじ)と憑(たの)み奉(たてまつ)るべき也。其中衆生悉是吾子(ごちゅうしゅじょうしつぜごし)と云(い)へり。是(これ)は我等衆生(われらしゅじょう)は釈尊の御子也(みこなり)と宣(の)べ給(たま)へり。故(かるがゆえ)に釈尊は我等衆生の親にて御座(ござ)し候(そうろう)。又唯我(ゆいが)一人能為救護(いちにんのういくご)と云(い)ふ。是は釈尊は我等衆生を一人して救ふべしと誓(ちか)ひ給へり。故に釈尊は我等衆生の師匠(ししょう)にて御座し候也。『法華大綱抄(ほっけたいこうしょう)』(昭定二〇四九頁)

 主人であり師匠であり親である釈尊の子として、庇護(ひご)されている我が身を思い、折りにつけ供養(くよう)し精進していくことが、我々仏教徒のお勤(つと)めであります。 今は末法(まっぽう)という濁世(じょくせ)の中、心に信心の熱い思いを抱き、法華経を杖とし、お題目を唱えつつ、辛抱強く生き抜いていきましょう。