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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

唱題受持

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  皆さんはお題目を一生懸命いつもお唱えになります。一心不乱に、お唱えになられます。私も皆さんと一緒になって、お題目を唱えさしていただきます、お題目を三百返、五百返、一千返唱えている間、残念ながら私は何かを考えることがあるのです。皆さんは如何ですか。一心不乱に唱えているのに、何をいうのかと思われる方もいらっしやるでしよう。

 私もまた凡夫であります。なかなか唱題三昧という境地に落ちつかないのです。お題目を唱えながら、考えていないようで何かを考えているのです。"雨が降って来た。傘をもって来なかったが帰りはどうしよう"今日のお題目は少し長いな。早く終らないかなあ。"皆さん、如何ですか。しかし、百返中の一返、三十分間のうちの一分でも一心不乱に唱題行をすることはできます。我々は凡夫であります。お経に説かれてある仏や菩薩のように安定の境地、禅定三昧の境地に入ることはなかなかできないのです。凡夫は常に心があっちこっちにと、行きかっているのです。常に心が散らばっているのです。常に散心です。それでも、その中で百返中の一返、三十分のうち一分間、わずか一念でも一心不乱、仏や菩薩のような禅定三昧唱題三昧の境地という瞬間があるはずです。

 日蓮聖人の教えは末法の私たち凡夫のための教えてあります。心があっちこっちにと、行きかっている散心の中の一念でも、お題目が集中すればよい。それしか凡夫にはできないと日蓮聖人は教えられております。一念の瞬間、凡夫は仏の世界にいる訳です。しかし凡夫故、すぐ戻ってしまうのですが、一念の瞬間、それが大事であり大切であり貴いのです。

 「一念は岩をも通す桑の弓」という言葉があります。弓が一本しかない夕暮れ時、突然虎と出会った。何もしなければ食い殺されてしまう。必死になって弓をはなつと見事弓は虎に当った。しかし近づくと、それは虎ではなく大きな岩であったという話であります。一念がこもっていたから固い岩をも桑の弓で通してしまうことができたのです。誰でも命がけで事を行なえば、大きな力を持つことができるということです。私たちもそういう強い本当の一念をもって、お題目をお唱えしなければならないのです。唱題に一念がこもれば大きな力を持つことができるはずです。

 宗祖の教えは信の教えてあります。ただひたすらにお題目をお唱えするだけでよいのです。宗祖の教えは、お題目ただそれだけで良い、末法の私たち凡夫にはそれしかない。但信口唱しかないということであります。

 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へ給ふ」と、日蓮聖人のお言葉にあるように、釈尊の永い菩薩行の過程とその結果仏となられたと言う慈悲と智慧総てはみな妙法蓮華経の五字の中に功徳として欠けることなく含まれている。だから私たちは一遍だに題目を唱えるならば釈尊の悟りにじかにふれ、やがては仏の境界に達することができるということです。宗祖の説かれたお題目の教えは、唱題受持一行によってのみ、自然と仏様の心を頂いて悪い心から離れることができるということです。

 仏道修行、題目修行は自転車に乗っているようなものだと思います。一回ペダルをふむと、あとは前へ走るしかありません。ペダルのこぐのを止めると自転車は倒れてしまいます。坂道を登る時には、我慢強くゆっくりと、下る時は慎重にペダルをこがねばなリません。お題目を唱える時もそうです。一度でもやめたらそれは退転です。元の木阿弥です。どんな時、どんな場所どんな環境になろうとも受持していくことが大切です。  

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