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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

日蓮大聖人のご両親について教えて下さい。

布教研究所所員・袋井 常蓮寺住職 土田隆恒

 日蓮大聖人は、一二二二年(貞応(じょうおう)元年)二月十六日、現在の千葉県鴨川(かもがわ)市小湊(こみなと)の地で、漁師の子としてご誕生された。

 父は、貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)といい、母を梅菊(うめぎく)という。家系には諸説があるが、大聖人の御遺文(こいぶん)に、

日蓮(にちれん)は東海道(とうかいどう)十五力国(こく)の内(うち)、第(だい)十二に相当(あいあ)たる安房国長狭郡東条(あわのくにながさのごおりとうじょう)の郷片海(ごうかたうみ)の海人(あま)が子也(こなり)(本尊問答鈔(ほんぞんもんどうしょう))


 日蓮(にちれん)は、中国(ちゅうごく)、都(みやこ)の者(もの)にも非(あら)ず、辺国(へんごく)の将軍(しょうぐん)らの子息(しそく)にも非(あら)ず。遠国(おんごく)の者、民(たみ)が子(こ)にて候(そうろう)(中興入道御消息(なかおきにゅうどうごしょうそく)) とあり、世俗の家を出(い)でて出家僧(しゅっけそう)となり、家系を問われない本意の一端がくみ取れる。

 しかし、系譜をたどると、おおよそ以下のことが伝わっている。

 遠江(とおとうみ)(今の静岡県の浜松(はままつ)・袋井(ふくろい)・掛川(かけがわ)市近辺)の国司(こくし)であった備中守共資(ぴっちゅうのかみともすけ)公の子孫は、代を重ねて栄えたが、五代の折(お)りに三子(さんし)に所領(しょりょう)を分(わか)って知行(ちぎょう)を任ぜられた。三子は長子を井伊(いい)家の嫡流(ちゃくりゅう)に、二子は赤佐(あささ)家に、三子は山名郡(やまなのごおり)の知行を任ぜられた貫名四郎政直(ぬきなしろうまさなお)であった。政直公は貫名の郷(今の袋井市内)に館を築き、貫名をもって氏とした。

 これが貫名家の始祖であり、この政直公から数えて四代の孫が、日蓮大聖人の父君、貫名重忠公である。貫名家は、政直公の子・貫名次郎行直、その子・貫名重実と相続し、その子が貫名重忠公である。貫名家は四代の間、貫名の地に住したが、重忠公が三十二歳の時、争いにまきこまれ、ついに安房の国小湊に流された。時に建仁(けんにん)三年(一二〇三)五月七日である。この地で重忠公と母梅菊君の間にご誕生された。

 しかし、父重忠公は正嘉(しょうか)二年(一二五八)二月十四日、小湊で病を得、枕辺(まくらべ)に高祖の弟君、貫名藤平重友(ぬきなとうべいしげとも)殿を召され「父祖代々遠州貫名の里に住まわれたから、自分も故国において臨終したいと願っていたが望みがかなわず、この上は遺骨を貫名に送り、父祖の墓地に埋葬してくれ。唯(た)だ今も魂は貫名の地にある。日蓮も宗門弘通(くずう)の本懐(ほんがい)を遂(と)げたあかつきには、一寺を建立し、遠祖代々の菩提(ぽだいと)を弔(むら)いくれるであろう」と遺言して亡くなられ、それに従って貫名の地に埋葬された。

 文永(ぶんえい)元年(一二六四)の秋、母君を小湊に見舞われた大聖人は、湯薬をすすめ寿命を延ばされたが、文永四年(一二六七)八月十五日、ついに母君も亡くなられ、遺言によって貫名に葬られた。

 父の法名は妙日(みょうにち)、母の法名は妙蓮(みょうれん)と称せられ、大聖人は故郷を望んでは法華経(ほけきょう)を唱えられた。

 大聖人は、祖先の地・貫名に一寺の建立を志(こころざ)され、父君の氏名(うじな)・貫名を山号とし、法号妙日をもって寺号として、貫名山妙日寺として現在の袋井市内に開創された。開基は妙日尊儀(そんぎ)・妙蓮尊儀であり、ご両親の五輪の墳墓(ふんぼ)と先祖のお墓は本堂横の思親殿(ししんでん)の奥に現存している。

 高祖が小湊を思い、ご両親が貫名の地を慕う心は、ともに敬親のみ心といえよう。

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