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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

ひなまつり(日本年中行事)

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  平安時代初期、人形のことを「ひいな」、人形遊びを「ひいな遊び」と呼んでいました。

 また、当時都の貴族の間では、「上巳(じょうみ)の節句」が行われており、これは三月最初の巳の日に、無病息災を願っておはらいをする行事で、この日には陰陽師(おんようじ・占い師)をまねいて、天地に祈を捧げ、紙や青竹で作った人形・形代(かたしろ)を桟俵(さんだわら)に乗せお供物を上げ川や海に流しました。

 当時の人々は災難や病気を人に代って人形に負わせることができると信じていたのです。この風習は、一般諸民の間でも広く行われており現在でも各地でひな流しの行事として残っています。

 上巳の節句は、やがて三月三日に行われるようになり、貴族たちが、お酒を飲みながら詩歌や貝合せの遊びを楽しむ日でした。

 戦乱の世が終り徳川幕府が政権を握ると、世の中も落ち着きを取りもどし、年中行事も盛んになり、いつしか「ひいな遊び」と「上巳の節句」がとけあって一つとなり、江戸時代初期に「ひなまつり」とよばれるようになり、宮廷や徳川家の大奥で盛大に行われるようになりました。

 江戸は文化・経済の中心でしたので、宮廷や大奥から広がった「ひなまつり」は、江戸時代中期には町人の間に広がり、地方へも伝わって行き、地方ことの特色を生みながら、女の子のための節句「ひなまつり」となり、時代と共に次第に発達しながら今日に伝わる日本独特の行事となったのです。

 「ひなまつり」のひなとは、「ちいさくて、かわいい」という意味で「ひいな遊び」から由来しています。

 次に、ひな人形は、どのようにしてできたのでしようか。

 むかしは、現代とはちがい良い医者が少なく、また、よいくすりもなかなか手に入りにくく、病気になると、どんどん悪くなってしまう人が多く特に、生れたばかりの赤らやんは、抵抗力がないので、ちょっとした病気でも死んでしまうことが多かったようです。

 そこで、どこの家でも赤らやんが生れると、丈夫に育つようにと、人形をつくり、赤らやんの枕元に置いて、人形に赤らやんの病気やケガなど悪いことを全部身代りになってくださいとお願いしたのです。(むかしの人は、人形が病気やケガを人に代って、もっていってくれると信じていた。)

 その身代りになる人形には、宮廷や武士の家では天児(あまがつ)、一般諸民の家では這子(ほうこ)という人形でした。天児とは、木製で十字架のようなものに白いきれで丸い頭をつけ、赤ちゃんのきる産着を着せた人形で、宮中では、今でも赤らやんが生れると、これを作り、枕元に飾るとのことです。

 這子は、ありあわせのきれで作られ、はいはいする赤ちゃんの姿になっている。布のぬいぐるみのことです。

 この二つの人形のかたらが変化して、一つになり、時代と共に現代のようなひな人形となったのです。  

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