| 浄土と云い穢土と云うも土に二の隔てなし 一生成仏抄(昭定四三) |
| 【三月】 日常、私たちは仏さまの世界が何処か遠く離れた世界に存在すると考えてしまいます。 しかし、大聖人はそのようにお説きになりません。 「浄土」とは仏さまの世界、「穢土」とは現実世界のことで、人々の煩悩や苦悩、そして厳しい自然環境に堪え忍ばなければならないことから「忍土」とも呼ばれております。 仏さまの世界と現実世界の二つに土(国土)の間にはまったく隔たりが存在しないと考えるのです。 この一節の前には「衆生の心けがるれば土も穢れ、心清ければ土も清し」とあって、すべては我々の心の様相によって、この世界が浄土にもなり穢土にもなると仰せなのです。 私たちの心は日々、喜び、悲しみ、菩薩になり、鬼にもなり千変万化を繰り返しています。 人間の迷いの根源は無明です。しかし、この迷いがなければ悟りが存在しないことも事実です。 「一念無明の迷心は磨ざる鏡なり」この迷いの鏡を磨くのは「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云なり」と、お題目を唱えることで迷鏡を明鏡に変えることができると示されているのです。 私たちの欲望や自我が強くなれば、この世界は浄土とは無縁の「穢れた世界」になってしまいます。 戦争、民族紛争、環境破壊、私たちが常に本仏と繋がっている、本仏の世界に住んでいるんだという深い自覚がなければ、世界は悪くなる一方なのです。 |