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日蓮大聖人のおことば 布教誌『宝塔』に連載中の「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より解説者の役職・所属寺院名などは掲載当時のもの

米は少しと思し食し候へども人の寿命を継ぐ物にて候

解説:学林教授・大久保  本修寺住職 田中 靖隆

米は少しと思し食し候へども人の寿命を継ぐ物にて候

 このお言葉は、弘安二年(一二七九年)八月、のぶの大聖人が五十八歳の時、檀徒の直秀うじてに送られた、お米へのお礼状からの一節です。

 米は少しの物と思われるかもしれませんが、人の命を継ぐ大切なものです。

 大聖人はつづけて「命は三千大千世界(私たちが住む世界全体)をもってしても買うことができません。米は命を継ぐものです。たとえるならば、命はともしびで、米は光を支える油です。」と述べられています。

 身延での大聖人のほかの手紙に「身体が石のように冷たく硬い」という表現があります。食糧が充分でなかったため、生きるために一番必要な最低限の体温を身体が作り出すこともできないほどの、いわゆる飢餓状態に近かったのではないかと推測します。そして、寒く空腹の時や落ち込んでいる時にも、食事を頂くと身体が温まり、力が出て、気分もしっかりして、前向きなよい考えが浮かびます。その様子を思い起こし、命を燈、米を油と表現されたのでしょうか。

 また「少し」の表現から、きんが続き、米が不足している中から、直秀氏が苦労して算段し送られたのであろうと察し、お米とともに、その想いを頂き、なおさら嬉しくありがたい気持になれたのかと思います。

 大聖人の時代や少し前の日本がそうだったように、食べる物が少なく、皆がいつもお腹がいていた時代から見ると、私たちは今飽食とまでいわれるありがたい時代におります。そうであれば心も満足しているはずです。もう一度、命をつなぐことが楽にできる今、何を命の油と考えましょうか。

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